晋泰元3年(378)春、秦王符堅、子符丕を遣わして南を侵し、中原に進攻、襄陽を衝いた。
襄陽を守っていた梁州刺史朱序は秦兵の暴行に憤慨し、符丕の降伏勧告を拒絶。
母親韓氏の建議に従い、城池を固めて、堅守し抵抗した。
ただ、兵力の多寡に懸隔があり、連続して大将が戦死した。
序は陣頭指揮して敵と戦おうとし、陣営の守将に人がいないため、母韓氏に兵権をゆだねる。
韓氏は奇襲によって符丕を敗る。
序は勝ちに乗じて敵陣を襲うが敵と内通する李伯護に裏切られて、敵に捕らえられる。
李伯護はまた西北の城壁が弱いという情報を秦兵に伝える。
符丕は兵を率いて猛攻、韓氏は自ら将兵を督戦して防衛するとともに、全城の婦女を集めて内側にも城壁を築かせ、遂に秦兵を防ぎおおせた。
城攻めに失敗した符丕は、朱序を城の前に引き出し、韓氏に降伏を迫った。
韓氏は悲痛の極に追いつめられるが、愛国の大義を嫁の楊氏と孫娘巧児に説き、城を子の命に代えることを拒否。
符丕は面罵されて逆上し、遂に朱序を殺し、城側の出撃を挑発した。
韓氏は兵を按じて動かず、孫娘巧児を都に派遣して救援を請う一方、内通者の李伯護を誅し、大いに秦兵を破って、襄陽を守り通した。
人民は韓氏の義勇と全城の婦女の築城防衛に感激し、その名を「夫人城」と名づけて記念とした。
城内の婦女は、城外に朱序を傷む。
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